「この作者、やっぱり“ただのギャグ漫画家”じゃなかった。」──『出禁のモグラ』を読み進めていくと、ふとそんな言葉が浮かびます。
“地獄”を舞台に笑いと哲学を両立させた『鬼灯の冷徹』の江口夏実が、今度は“現世”と“怪異”の狭間で、さらに研ぎ澄まされた人間観察を見せてきました。
この記事では、『出禁のモグラ』と『鬼灯の冷徹』をつなぐ世界観の共通点と進化、江口夏実という作家の魅力を多角的に掘り下げていきます。
ただ笑えるだけじゃない、ただ怖いだけじゃない──その狭間にある“江口ファンタジー”の真骨頂に、今、触れてみましょう。
『出禁のモグラ』とは何か?世界観・設定・登場人物の魅力
「この続き、アニメじゃ描かれないかも…」
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出禁になった仙人モグラの正体とユーモアに満ちた設定
『出禁のモグラ』は、江口夏実先生が『モーニング』(講談社)で連載中の異色ファンタジー漫画で、2021年からの連載を経て、2025年現在は第11巻まで刊行、アニメ化も果たした注目作です。物語の中心となるのは、“あの世”──つまり霊界──から出禁を喰らった元・仙人の“モグラ”という存在。彼は死後の世界ではなく、あくまで現世に居場所を持ち、霊たちと曖昧な距離で共生するという異常な日常を描いています。
「霊界から追放された」と聞けばギャグにしか思えませんが、江口作品らしく、その一言の裏に深い社会風刺と哲学が仕込まれているのがポイント。モグラは見た目こそ小汚く人間臭い存在ですが、彼の持つ知識や達観した態度は、まさに“仙人”の風格。彼が語る言葉の端々に、江口先生らしい鋭い観察眼と人間への皮肉が光ります。
私は最初、モグラを見て「鬼灯(ほおずき)と真逆のキャラだな」と思いました。鬼灯が地獄で徹底した秩序と管理を貫いていたのに対して、モグラは現世でいい加減かつ適当。でも、それこそが江口作品の魅力なんですよね。〈真面目な顔でバカバカしいことをやる〉、このギャップの妙に私は何度も唸らされました。
しかも設定の奥行きが深い。霊に好かれすぎて“あの世から追放”されたとか、仙人のくせに煙草を吸ってるとか、すべての要素が突拍子もないようでいて、物語の骨格としてしっかり機能している。ギャグでありながら、どこか哀愁をまとっているのも特徴です。モグラの存在は、まるで“現代に取り残された異界の使者”のようでもあり、江口夏実先生の創造力の凄みを感じずにはいられません。
このモグラというキャラは、「人間でも霊でもない、中間的存在」として物語全体の“ゆらぎ”を象徴しています。『鬼灯の冷徹』で地獄というルールに縛られた世界を描いた江口先生が、今度はあえて“どちらにも属さないキャラ”を主役に据えた──そこに私は、作家としての新たな挑戦と解放を感じました。
“見える人間”吉川くんと“霊”との共存が描くリアルな日常
『出禁のモグラ』はモグラだけでなく、もうひとりの主人公・吉川くんの存在によって、ぐっと“現代のリアル”に根ざした物語へと着地しています。吉川くんは、霊が“見えてしまう”体質の持ち主。ごく普通の人間である彼が、モグラと出会うことで、現世と霊界の境界が日常の中に浸食されていく構図が、本作の最大の魅力です。
この吉川くんの設定、どこか『鬼灯の冷徹』における人間キャラたち──閻魔様や桃太郎たちの“人間的弱さとユーモア”を引き継いでいるように感じました。モグラという異界の存在に巻き込まれながらも、吉川くんは“日常を生きる”ことを手放さない。その姿が、とても現代的で、痛切で、だからこそ面白いんです。
個人的に刺さったのは、“幽霊の方から相談してくる”という構図。これは逆転の発想であり、かつて『鬼灯』で亡者を管理していた構造を、もっと近くて身近なものに変換したアイデアなんですよね。霊たちが怖い存在ではなく、「少し困ってるご近所さん」みたいに描かれているのが斬新で、でもどこかリアル。
江口夏実作品の真髄は、やはりこの“恐怖と親しみの同居”にあります。『出禁のモグラ』において吉川くんは、私たち読者の代弁者です。彼が見る世界は決して異界ではない。“ほんの少しズレただけの日常”なんですよね。だからこそ、笑えるし、怖いし、泣ける。
この絶妙な距離感──“人間の目線で、霊たちとどう関わっていくか”という問いこそが、『出禁のモグラ』の本質であり、同時に江口夏実という作家の現在地を示す指針になっているように感じます。
江口夏実の作家性に宿る共通テーマと表現技法
『鬼灯の冷徹』から引き継がれるブラックユーモアと観察眼
江口夏実という作家の特異性を語るとき、まず挙げなければならないのが、その“ブラックユーモアの巧みさ”と“徹底した人間観察眼”です。『鬼灯の冷徹』では、地獄の鬼たちが繰り広げる日常を通じて、生きること・死ぬこと・許されること・報いを受けることを、笑いに昇華するという離れ業をやってのけました。
そしてその手法は『出禁のモグラ』にも、まったく新しい形で引き継がれています。舞台は変われど、人間と霊、異界と現世という境界をユーモアで縫い合わせ、読者に「笑っているけど、実はちょっと痛い」と感じさせる構造は健在です。
たとえば、『鬼灯の冷徹』では閻魔大王の権威や、伝統的な地獄の儀礼を軽妙に風刺していましたが、『出禁のモグラ』では、社会に居場所を持てない霊たちや、怪異との距離感に困る人間たちを描きます。そのユーモアは、より現代的で、私たちの生活に近い悩みや違和感を題材にしている分、皮肉の効き方が鋭くなっている印象です。
筆者として特に心を打たれるのは、江口先生の“笑わせながら、同時に刺してくる”その語り口。ギャグで包みながら、根底には確かな問題意識がある。そのスタンスは一貫していて、『鬼灯の冷徹』では〈死者をどう扱うか〉を、『出禁のモグラ』では〈見えないものとの距離感〉を問い続けています。
笑っているうちに、ふと自分の中の“倫理”や“共感”のありかを再確認させられる──これが、江口夏実作品の持つ“毒のある優しさ”なのだと思います。
細部の描写に宿る“霊”と“人”への愛情と皮肉
江口夏実の描くキャラクターには、いわゆる“テンプレ”が存在しません。『鬼灯の冷徹』の鬼灯や白澤も、『出禁のモグラ』のモグラや吉川くんも、それぞれの役割を担いながら、内面には複雑な情動と矛盾を抱えています。それはつまり、どのキャラにも“弱さ”や“醜さ”が許容されているということ。
霊に好かれすぎて“あの世出禁”を喰らったモグラの設定ひとつ取っても、彼が超越者であると同時に、どこか欠けた存在であることが分かります。そして江口先生は、そうした欠落を徹底的に細部で描くんです。ボサボサの髪、雑に置かれた灰皿、誰にも気づかれない独り言──どれもモグラの生き様を静かに物語っています。
これ、実は『鬼灯の冷徹』でも同じでした。冷静沈着に地獄を仕切る鬼灯が、実は動物好きで、時に他者に心配されるほどストイックだったりする。その細やかな感情の機微を、セリフではなく“表情のニュアンス”や“ポーズの間”で描く力が、江口作品の味わい深さを生んでいると思うんです。
とくに『出禁のモグラ』では、霊という“触れられない存在”を描く以上、そうした表情や空気の“にじみ”がとても重要になってきます。そこにこそ、江口夏実の“漫画家としての矜持”を感じる瞬間がある。幽霊が泣くシーンでも、ホラーじゃなく、“静かに染みてくる優しさ”を感じるんですよね。
愛情と皮肉が表裏一体で描かれることで、読者はキャラクターに対して一面的な感情を持つことができなくなる。好きだけど、ちょっと怖い。笑えるけど、同情もする。江口先生の描写は、常にそういう“揺らぎ”の中にあるんです。
『出禁のモグラ』は、ただのギャグ漫画でも、ただの心霊譚でもない。“人間の曖昧さ”そのものを主題にしているからこそ、細部まで読み込んでこそ味わえる漫画なんだと、改めて感じさせられます。
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『出禁のモグラ』と『鬼灯の冷徹』──“あの世”と“この世”の対比構造
地獄と現世、逆転した視点で描かれる“生と死の境界”
江口夏実作品における最大の魅力のひとつは、“あの世”と“この世”の境界を独自のフィルターで描いてきた点にあります。『鬼灯の冷徹』では、完全に“あの世=地獄”を舞台に据え、閻魔庁や獄卒たちの仕事をユーモラスかつ秩序だった形で描いていました。一方、『出禁のモグラ』はそれとは真逆ともいえる立場で、“この世”に漂う霊たちと、それに巻き込まれる人間たちの姿を主軸にしています。
面白いのは、どちらも“死”というテーマを内包しながら、視点の位置がまるで違うことです。『鬼灯の冷徹』では、「死んだ後にどう生きるか?」を地獄側の視点から描き、『出禁のモグラ』では、「まだ生きている人間が、死者とどう付き合うか?」を現世側から掘り下げていきます。
そしてこの視点の差が、物語の語り口やキャラクターの在り方に決定的な違いを与えています。鬼灯はルールを守る側、管理する側。モグラはルールに縛られず、境界を自由に行き来する側。これだけでも“地獄の鬼”と“あの世から追い出された仙人”という設定の意味がまったく違って見えてきます。
私はこの“逆転”にこそ、江口先生が描きたかった次のテーマがあると感じました。かつて『鬼灯の冷徹』が提示した「死んだら終わりじゃない」という問いに対し、『出禁のモグラ』は「生きてるうちに、どこまで死と向き合えるか?」と問い返しているようにも思えるんです。
つまり、死を“向こう側”から描いた『鬼灯の冷徹』に対して、『出禁のモグラ』は死を“こちら側”で受け止めようとする物語。生きている限り、霊も怪異も、他人事ではいられない。そんな“距離の近さ”が、読者にじわじわと染みてくる──これこそ、江口夏実作品における“世界観の深化”そのものだと思います。
どちらの世界でも変わらない“人間臭さ”の描き方
地獄であろうと現世であろうと、江口作品に登場するキャラクターたちに共通しているのは、その“人間臭さ”です。鬼であれ神であれ、幽霊であれ仙人であれ、彼らの行動にはどこか“我々と同じ感情”が息づいています。
『鬼灯の冷徹』の白澤は医術に長けた天才ながら女好きで酒癖も悪く、鬼灯は理知的な一方で動物好きの不器用な男でした。それと同じように、『出禁のモグラ』のモグラは超越者的な存在でありながら、煙草を吸い、イライラし、人付き合いが面倒くさいという、とても“普通”の感情を抱いています。
この“神でも鬼でもない、ただの人間くささ”を貫いているところに、江口先生の作家としての愛があると私は思います。モグラも吉川くんも、霊たちも、誰ひとり完璧ではない。むしろ、欠けていて、どこか情けなくて、だからこそ愛おしい。
特に『出禁のモグラ』では、霊たちにだって“性格”があり、“悩み”があると描かれているのが新鮮です。地縛霊なのにSNSに取り憑いてる女の子、川辺に現れる“タチの悪い先輩”みたいな幽霊など、ただの怪異としてではなく、まるで“隣人”のように描かれる存在たち。そこにはホラーではなく、人間ドラマがあります。
だからこそ、江口作品は読後に不思議な感覚を残してくれるんです。笑ったはずなのに、ちょっと切ない。バカバカしいのに、心が動いてしまう。その感覚の正体は、きっとキャラたちが“人間の一部”を反映しているからこそなんですよね。
原点回帰か、進化か?江口夏実にとっての“モグラ”の位置づけ
キャラ発想の時系列から見える作家のルーツ
実は『出禁のモグラ』のモグラというキャラクターは、『鬼灯の冷徹』よりも前から江口夏実先生の頭の中に存在していた、という事実をご存知でしょうか?これは2024年に公開されたインタビュー記事でもご本人が語っていたことで、「実は“モグラ”の方が先に浮かんでいたキャラなんです」という一言が、すごく印象に残っています。
つまり、作品としては『鬼灯の冷徹』が先に世に出たものの、“精神的には『モグラ』が原点だった”という構図が、江口先生の創作キャリアに一貫したテーマ性を与えているんですよね。私はこの発言を読んだとき、ちょっと鳥肌が立ちました。というのも、『鬼灯』という完成された世界の前に、もっと無軌道で、もっと曖昧な“出禁のモグラ”的な発想があったこと。それが、江口作品にある“構築と脱構築”のバランスを象徴していると感じたんです。
『鬼灯の冷徹』が「システムと管理」の物語だったのに対して、『出禁のモグラ』は「逸脱と曖昧さ」の物語。ここには明確なコントラストがあって、でもどちらにも通じるのは、“人間の本質を捉えたい”という江口夏実の変わらぬ眼差しです。
だからこそ、モグラという存在が“最初に思いついたキャラ”であることは、とても大きな意味を持ちます。地獄というルールの中で物語を組み立てた『鬼灯』の後に、ルールの外側にいる“出禁の存在”を主人公に据える──これは、作家としての進化であると同時に、彼女自身の創作の原風景へと立ち返る作業でもあるはずです。
ルーツを辿ることで、表現は深くなる。モグラという“出禁の存在”が、実は江口作品の中心にずっと存在し続けていたことが、今の物語に奥行きを与えている。そう思えてならないのです。
“あの世ネタ”から“怪異ネタ”へ──モチーフ変遷と深化するテーマ
『鬼灯の冷徹』が“地獄”を徹底的に掘り下げた作品だったのに対し、『出禁のモグラ』では“現世の怪異”をテーマにしています。この変遷は、単なる題材の違いではなく、江口夏実という作家が見つめる“人間と世界の関係”の変化を象徴しているように思います。
『鬼灯』では、死後の世界という明確な枠組みの中で、亡者や神々、妖怪たちが秩序の中で生きていました。しかし『出禁のモグラ』では、霊や怪異たちはその枠組みすら曖昧な“現実の隣”に存在しています。これはつまり、「死」を管理されたものから、“生活の一部”として再定義したとも言えるのではないでしょうか。
この“生活の中の怪異”というテーマは、江口作品の中では新しい挑戦でもあり、同時に極めて文学的な視点を感じさせます。幽霊や妖怪が物語の中で“異界”として扱われるのではなく、あくまで現代社会の一部──SNSや職場、恋愛といった場面に自然に登場してくる。このナチュラルな配置が、ものすごく巧妙なんですよね。
筆者として注目したいのは、“怪異そのもの”ではなく、それに対する人間のリアクションを描くところ。怖がる、避ける、受け入れる、時には利用する──そういったリアクションがすべて“現代的”で、今を生きる私たちの価値観が映し出されているんです。
『鬼灯の冷徹』では死後に待ち受けるシステムとしての“地獄”を描きましたが、『出禁のモグラ』では“生きている今この瞬間”にすでに存在している“怪異”との共存を描いている。このモチーフの深化こそが、江口夏実がたどり着いた“もうひとつの世界観”なんだと思います。
“読むと見えてくる”江口ワールドの本質と原作のすすめ
アニメ化では描ききれない“巻末”や“描き下ろし”の味わい
2025年夏、『出禁のモグラ』のTVアニメがついに放送開始され、多くの視聴者が“江口夏実ワールド”の新たな一面に触れています。中村悠一さんがモグラを演じることで、原作の“しゃがれた老成感”が声でもしっかり表現されているのが嬉しいですね。ただ、筆者として強く感じるのは──アニメだけでは絶対に、この作品の“深層”までは到達できないということ。
『出禁のモグラ』の原作コミックスには、アニメでは絶対に拾いきれない“静かなニュアンス”が息づいています。とくに注目したいのが、各巻の巻末に収録された描き下ろしエピソードやあとがき、さらにはカバー下のおまけ漫画。これらには、本編の延長線としてのユーモアだけでなく、江口先生の世界観への“私的な視点”が滲み出ているんですよ。
たとえば、とある巻末のおまけでは、霊との付き合いに慣れすぎた吉川くんが“生者”より“死者”との方が会話しやすいと語る場面があります。これ、ギャグに見せかけて、すごく怖くて深い。人間関係の希薄さや、社会的孤立といった現代的テーマが、“怪異との共生”という形で反射されているんです。
さらに、キャラクターたちが本編では見せなかった表情──モグラのちょっとした照れ、吉川くんの無自覚な優しさ、霊たちのささやかな感情──そういった細かな感情の“余白”こそが、巻末やおまけページでは丁寧に描かれています。これはもう、原作を読むことでしか味わえない“江口節”だと断言できます。
アニメを入り口にするのはもちろん大歓迎。でも、その先で「もっと深くこの世界を覗いてみたい」と感じた人は、ぜひ原作コミックスに手を伸ばしてほしい。本編以外の小ネタやモノローグにこそ、江口先生の“読者へのメッセージ”が隠れているからです。
原作コミックスでこそ拾える“セリフの間”と“キャラの沈黙”
江口夏実作品に共通する表現技法のひとつが、“間”の使い方です。キャラクターが何かを言いかけて、ふと黙る。その一瞬の“沈黙”が、言葉より雄弁に心情を語ってくれる。これは『鬼灯の冷徹』でも頻繁に使われていた手法ですが、『出禁のモグラ』ではさらに磨きがかかっています。
たとえば、吉川くんが霊に相談を受けているシーン。彼は相手を否定も肯定もせず、ただ“うん”と頷くだけ。そのあとに挿し込まれる“空白のコマ”が、読者に想像の余地を与えるんですよね。「この人は何を感じたんだろう?」「この霊は、今、救われたのかな?」──そんな問いかけが、ページの隙間からじわじわと滲んできます。
これはアニメではなかなか再現しにくいポイントです。映像ではテンポが決まっていて、どうしても“言葉”や“動き”が中心になる。でも原作漫画ならではの“コマとコマの余白”は、読者の内面と静かに繋がってくれるんです。これが本当に心地よい。
さらに、キャラクター同士の会話の“間”にも注目したい。特にモグラは、言葉を濁すことが多い。彼は何でも分かっているようで、実は大事なことは言葉にしない。江口先生はその“言わなさ”を、微妙な視線や手の動きで描き分けていて、読者はそこに“読まされる”んです。
原作コミックスの良さって、こういう“情報量の少なさ”にもあるんですよね。すべてを説明せず、語りすぎず、でも確かに届く。そんな“余韻のある描写”が、『出禁のモグラ』という作品を、ただのコメディやホラーから超越させている理由なのだと、私は思います。
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出禁のモグラ×鬼灯の冷徹 世界観考察まとめ
“地獄”と“現世”の交差点に立つ、江口夏実作品の核心
『鬼灯の冷徹』と『出禁のモグラ』──一見、まったく別物に見えるふたつの物語ですが、実はこの二作をつなぐ“見えない橋”こそが、江口夏実という作家の本質を照らしています。地獄の秩序と、現世の曖昧さ。そのどちらにも、“死”というテーマは確かに潜んでいて、そして“人間”というフィルターで見事に変換されている。
『鬼灯の冷徹』では、「死んだ後の世界」で生き直す亡者たちを描きながら、実は“人間らしさ”とは何かを、徹底して観察していました。一方で、『出禁のモグラ』では、「生きている今この瞬間」に漂う怪異や霊を通して、逆に“死に寄り添うことのリアル”を突きつけてきます。この反転構造が、ただのネタの使い回しではなく、明確な“問い直し”として機能しているところに、江口作品の深みがあります。
筆者として強く感じるのは、江口夏実という作家が“あの世とこの世”のどちらかに安住することを拒んでいるという点。モグラは霊でも人でもなく、鬼灯もまた冷徹なようでいて時に人間以上に繊細。江口先生のキャラクターたちは、常に“境界”に立っています。だからこそ、読者は彼らに“完全に共感することができない”し、同時に“無視することもできない”。この“揺さぶり”こそが、江口作品の魔力だと思います。
そして、その魔力がもっとも濃密に味わえるのは、やはり原作コミックスでこそ。『鬼灯の冷徹』でもそうだったように、『出禁のモグラ』もまた、巻末のおまけ、セリフの間、視線の誘導、空白のコマ、そして“読者に語りかける沈黙”といった、アニメでは再現しきれない要素が散りばめられています。
この記事を読んで、「もう一度読み返したくなった」「アニメでは見えなかった何かに気づいた」と感じた方は、ぜひ手元に原作を置いてほしいです。そこには、江口夏実の描く“生と死のほんの境目”が、確かに息づいています。
“読んだ先にある感情”を共有するために
筆者が江口夏実作品に魅了される理由は、キャラが魅力的だからでも、世界観が奇抜だからでもありません。それは、“読み終わったあとに残る感情”が、いつもじんわりと沁みてくるからです。笑って、怖がって、でも最後には「ああ、人間って面倒くさいけど、やっぱり捨てたもんじゃないな」って思わせてくれる。その体験が、何よりも価値ある読書体験なんです。
『鬼灯の冷徹』の地獄でも、『出禁のモグラ』の現世でも、描かれているのは“完璧じゃない人たち”の姿。むしろ、弱くて、ズルくて、でもどこか愛おしい存在たちが、“人ならざるもの”との関係を通して、少しだけ成長したり、何かを諦めたり、あるいは立ち止まったりする。そのすべてが、読者にとっての“人生のリハーサル”みたいになっているんですよね。
「霊なんて信じてない」「地獄なんて空想だろ」──そんな人にこそ、江口夏実作品は効きます。だって、そこに描かれているのは“自分の中にある霊”であり、“心の中の地獄”だから。読んでいるうちに、笑いながら自分の弱さと向き合わされる。その構造こそが、江口作品の“救い”であり、最大の“中毒性”だと思うんです。
『出禁のモグラ』と『鬼灯の冷徹』は、それぞれが独立した作品でありながら、“人間と死”という普遍的なテーマを共有しています。そして、そのテーマを通して、私たち読者の心にそっと寄り添ってくる。江口夏実という作家の凄みは、まさにそこにある。
このふたつの作品を繋ぐラインを意識して読み進めると、“江口ワールド”の全貌が、まったく違う顔を見せてくれるはずです。
- 『出禁のモグラ』と『鬼灯の冷徹』の世界観を比較しながら、江口夏実作品の進化と一貫性を読み解ける
- モグラの設定が“鬼灯よりも先”という意外な事実から、作家のルーツに迫ることができる
- “あの世”から“この世”へ──死と生の視点の違いが、物語にどう影響しているかがわかる
- アニメでは描ききれない、原作コミックスならではの“間”や“巻末描き下ろし”の魅力に気づける
- 江口作品に流れる“人間臭さ”と“読後の余韻”が、ただのギャグ漫画ではない深みを証明している
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