氷の上を滑るその一歩に、なぜか胸がざわつく。『メダリスト』のスケートシーンには、そんな「説明できないリアル」が確かに宿っています。
ジャンプが決まった瞬間よりも、その直前の助走や、踏み切るまでの一瞬のためらいに、心を持っていかれた方も多いのではないでしょうか。
本作がここまで“本物らしく”感じられる理由のひとつが、モーションキャプチャーの存在です。ただし、その裏側は意外と誤解されがちでもあります。
この記事では、公式情報を軸に「モーションキャプチャー担当は誰なのか?」という疑問を丁寧に整理しつつ、なぜ『メダリスト』の演技がここまで心に刺さるのか、相沢透の視点で深く掘り下げていきます。
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『メダリスト』アニメのモーションキャプチャー担当は誰なのか
制作クレジットから読み解く「モーションキャプチャー担当」の正体
まず最初に、いちばん誤解されやすいところから整理させてください。「『メダリスト』のモーションキャプチャー担当は誰?」という問い、実はこの聞き方そのものが、少しだけズレているんです。
というのも、アニメ制作におけるモーションキャプチャーは、ひとりのスケーターやひとりのスタッフが担う“単独作業”ではないから。公式クレジットを丹念に追っていくと、そこにはまず「モーションキャプチャー制作」を担ったCGCGスタジオの存在が浮かび上がります。
ここで一度、頭の中を整理しましょう。ネット上では「この人が滑った」「あの元選手が担当した」という断片的な情報が飛び交いがちですが、公式情報が示しているのはもっと立体的な構造です。“誰が動きを作ったか”と“誰がその動きを成立させたか”は別の話なんですね。
CGCGスタジオは、フィギュアスケートという極端にスピードと広がりを必要とする競技を、アニメの画面に落とし込むための技術的中枢を担いました。名古屋の実在リンクを使い、広大なスケールでモーションキャプチャーを行ったという公式制作記事を読んだとき、正直ちょっと笑ってしまったんです。いや、ここまでやる?と。
でも、その「やりすぎ」にこそ、『メダリスト』の正体がある。狭いスタジオで再現できない助走の距離、リンクを横切るときの加速と減速、エッジが氷を噛む微妙な角度。そういう“数値化しにくい感覚”を嘘にしないための環境づくりが、モーションキャプチャー担当=CGCGスタジオの仕事だったわけです。
ここで僕が強く感じたのは、「担当は誰か」という問いの答えは、個人名ではなく制作体制そのものだということ。誰か一人の天才がいた、という話にしたくなる気持ちはわかる。でも『メダリスト』は、そういう神話に逃げない作り方をしている。その誠実さが、画面の隅々から滲み出ているんですよ。
少しキモい言い方をすると、僕は制作クレジットを見ながら「この人たち、絶対スケート好きだな」とニヤニヤしていました。好きじゃなきゃ、ここまでやらない。合理性だけで動く現場なら、もっと省略する。そこをしなかった時点で、この作品の本気度は決まっていたんだと思います。
“誰が滑ったのか”という問いが一言で答えられない理由
次に、もうひとつ厄介で、でも面白い問いに踏み込みます。「結局、誰が滑ったの?」という疑問です。これ、検索すると本当にいろんな名前が出てきますよね。元トップスケーター、振付担当、撮影協力……。
ここで大事なのは、公式情報が使っている言葉です。たとえば「モーションキャプチャー撮影協力」「振付」「モーションキャプチャー制作」。この微妙に違う肩書き、全部ちゃんと意味があります。
『メダリスト』の場合、振付を担当した元フィギュアスケーターが、モーションキャプチャーを用いて実際に滑り、その動きを演技設計に落とし込んでいることが公式インタビューなどから読み取れます。ただし、これは「全キャラクターを一人で演じた」という話とは別です。
ここ、めちゃくちゃ大事なので少ししつこく言いますね。フィギュアスケートって、技の種類だけでなく、滑り手の性格や思想が身体に出る競技なんです。同じトリプルジャンプでも、「安全にまとめたい人」と「攻めたい人」では、助走の間合いも、踏み切りの角度も、腕の使い方も違う。
だから『メダリスト』は、「誰が滑ったか」を単純化しない。キャラクターや演目、物語上の意味に応じて、複数のスケーターや協力者の知見がレイヤー状に重なっている。公式に第2期で「モーションキャプチャー撮影協力」という肩書きが明示されたことも、その構造を裏付けています。
個人的に、この曖昧さがすごく好きなんです。名前を一人に固定しないことで、「この演技は誰のものか」という問いが、自然とキャラクター側に戻ってくる。つまり、「これは誰の人生の滑りなのか?」という、本来向けるべき場所に視線が戻るんですね。
ネット上の感想を見ていると、「あの動き、絶対プロだよね」「経験者じゃないと無理」といった声が多い。でもそれは半分正解で、半分はもっと面白い答えがある。プロの身体と、アニメキャラクターの心が、モーションキャプチャーという層で溶け合っている。だから一言で答えられないし、答えられないこと自体が、この作品の価値なんです。
ここまで読んで「ちょっと語りすぎでは?」と思われたなら、たぶん正解です。でも、それくらい分解しないと、『メダリスト』のスケートが放っている異様な説得力は説明できない。モーションキャプチャー担当は誰か。その答えは、一人の名前ではなく、氷の上に積み重なった人間の層そのものなんだと、僕は本気で思っています。
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公式情報から見るモーションキャプチャー制作の全体像
CGCGスタジオが担った技術的役割と制作体制
『メダリスト』のモーションキャプチャーを語るとき、どうしても「誰が滑ったのか」という話題に引っ張られがちなんですが、ここで一度、視点をぐっと引いてみたいんです。氷の上で生まれた動きが、どうやって“アニメの演技”として定着したのか。その裏側を支えたのが、公式に明記されているCGCGスタジオの存在でした。
CGCGスタジオは、単に動きを“記録する”だけの役割ではありません。フィギュアスケートという競技は、動きが速すぎて、人間の目でも把握しきれない瞬間の連続です。その一瞬一瞬を、後からアニメとして再構築できる形に分解し、整理し、使えるデータへと変換する。言い換えるなら、生身の身体を「演技の設計図」に翻訳する仕事を担っていました。
制作記事を読み込んでいくと、「モーションキャプチャープロデューサー兼ディレクター」という肩書きが出てきます。ここ、個人的にめちゃくちゃグッときました。なぜなら、“プロデューサー”と“ディレクター”を兼ねるということは、技術と演出、両方の責任を同時に背負っているという意味だからです。
つまり、「この動きは正確か?」だけでなく、「この動きはキャラクターの感情として成立しているか?」までを判断する立場。数値や座標の世界と、物語の世界を往復し続ける役割です。これ、言葉にすると簡単ですが、実際には相当な地獄だと思います。少しズレただけで、リアルにもならないし、アニメ的な気持ちよさも失う。
僕が勝手に想像しているのは、データを見ながら「これは上手すぎる」「これは人間らしくない」という、逆方向のダメ出しが飛び交う現場です。普通、モーションキャプチャーって“上手に動いていればOK”になりがちなんですが、『メダリスト』では「上手すぎること」が違和感になる領域をちゃんと意識していた節がある。
その結果として生まれたのが、あの「ちょっと怖いくらいリアル」な滑りです。完璧じゃない。けれど、失敗しているわけでもない。人間が本気で何かに挑むときの、あの微妙な揺らぎ。その揺らぎを消さずに残す判断が、制作体制の中に組み込まれていたように感じます。
正直に言うと、ここまで技術側の思想が透けて見えるアニメは、そう多くありません。CGCGスタジオがやっていたのは、派手な自己主張ではなく、「演技を邪魔しないための技術」だった。その姿勢が、逆にものすごく雄弁なんですよ。
実在のリンクで行われた収録がもたらした説得力
もうひとつ、公式情報で見逃せないのが、モーションキャプチャーの収録が実在のスケートリンクで行われたという事実です。しかも、広さのある本格的なリンク。これ、聞いた瞬間に「あ、勝ちにきてるな」と思いました。
フィギュアスケートのリアリティって、ジャンプやスピンみたいな“派手な部分”に目が行きがちですが、本当に差が出るのは、リンクを横断する時間なんです。助走の距離、スピードの乗り方、減速のタイミング。狭い空間だと、どうしても嘘が混じる。
実在リンクでの収録という選択は、その嘘を最初から許さない環境を自分たちに課した、ということでもあります。滑る側は誤魔化せないし、撮る側も「あとで調整すればいい」とは言えない。最初から本物のスケールでやるしかない状況を作ったわけです。
ここで僕がゾクッとしたのは、「広さ」が演技に与える影響です。リンクが広いと、自然と滑りが大きくなる。大きくなると、身体の癖や重心移動が如実に出る。つまり、キャラクターの性格が、より露骨に現れてしまう。
これは、制作側にとってはかなりリスキーな選択です。下手にやると、アニメとして整わない。でも『メダリスト』は、そのリスクを取った。その結果、画面から伝わってくるのは、「安全にまとめた演技」ではなく、「リンクに放り出された人間の滑り」なんですよね。
SNSなどで見かける「助走が怖い」「止まれなさそう」という感想、あれは偶然じゃありません。実在リンクでの収録によって、スピードと距離感が、観ている側の身体感覚にまで届いている証拠です。
個人的な体験談を挟むと、僕は昔、スケートリンクの端で見学していたことがあるんですが、選手が全力でこちらに向かってくると、本能的に一歩下がってしまうんですよ。『メダリスト』を観ていて、その感覚を思い出しました。画面越しなのに、身体が反応する。
それって、単なる作画やCGの上手さじゃ説明できない。「本物の空間で生まれた動き」が持つ圧なんです。公式情報を踏まえて改めて観返すと、『メダリスト』のスケートシーンは、技術の集合体であると同時に、空間そのものを演技に取り込んだ挑戦だったんだと、しみじみ思わされます。
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振付担当・元トップスケーターが関わる意味
振付という仕事が「動きの設計図」以上のものになる瞬間
『メダリスト』における振付という仕事は、一般的なアニメ作品で想像されるそれとは、少し…いや、かなり質が違います。公式情報を辿っていくと、振付担当が「モーションキャプチャーを用いて実際に滑っている」という事実が、さらっと、でも確実に書かれている。ここ、軽く流すにはあまりにも情報量が多い。
振付って、本来は「どう動くか」を決める仕事ですよね。どこでジャンプするか、どの順番で技を入れるか、音楽とどう合わせるか。でも『メダリスト』の場合、それは「どう生きているか」を動きに落とす作業に近い。
元トップスケーターが関わる、という事実そのものよりも重要なのは、その人が「振付担当」という立場で現場にいること。つまり、ただ正しい動きを再現する人ではなく、演技全体の意味を設計する側として関わっている、という点です。
ここで僕の頭に浮かんだ比喩は二つあります。一つは「設計士」、もう一つは「翻訳家」。前者は構造を作る役割、後者は感情を別の言語に置き換える役割。『メダリスト』の振付は、その両方を同時にやっている。
フィギュアスケートの振付って、実はものすごく言語化しにくいんです。たとえば「ここは攻めたい」という感覚を、具体的な身体の動きに落とす必要がある。でもそれは、ジャンプを増やせばいい、スピンを派手にすればいい、という単純な話じゃない。
公式インタビューで語られている「モーションキャプチャーを使って滑る」というアプローチは、その言語化しにくさを、身体そのものに任せる選択だったんだと思います。考えるより先に、滑ってしまう。身体が先に答えを出す。その答えを、後からアニメとして整えていく。
正直、ここまでやる必要があったのか?と問われたら、「普通のアニメなら、必要なかった」と答えます。でも『メダリスト』は普通じゃない。物語そのものが、「才能」「努力」「怖さ」「焦り」といった、身体感覚と直結したテーマを扱っている。だからこそ、振付が“設計図以上”にならざるを得なかった。
少しキモい話をすると、僕はスケートシーンを観ながら、「この動き、頭で考えてないな」と感じる瞬間が何度もありました。良い意味でです。考える前に出た動き、迷いが残った動き。そういうノイズが残っていること自体が、この作品の誠実さを物語っている。
スケーターの人格を想像して滑るというアプローチ
もう一段階、踏み込んだ話をしましょう。公式コメントや制作背景から読み取れるのは、振付担当が「キャラクターの人格を想像しながら滑っている」という点です。これ、さらっと書くと詩的ですが、実際はとんでもなく難しいことをやっています。
なぜなら、現実のスケーターと、物語の中のキャラクターは、似ているようで全く違う存在だから。年齢も、経験も、置かれている環境も違う。その違いを無視してしまえば、ただ「上手な滑り」になる。
でも『メダリスト』の演技は、上手なだけじゃない。不安そうだったり、背伸びしていたり、どこか無理をしていたりする。その違和感が、ちゃんと演技として残っている。
ここで僕が想像したのは、振付を考える段階での思考です。「この子は、まだ自分の武器をわかっていない」「この子は、失敗を一度知っている」。そういう物語上の前提を抱えたまま、リンクに立つ。
すると、自然と滑りが変わる。助走が少し長くなるかもしれないし、踏み切りが一瞬だけ遅れるかもしれない。ジャンプ自体は同じでも、そこに至るまでの“間”が違ってくる。
モーションキャプチャーという技術は、その“間”を、容赦なく記録します。ごまかしが効かない。だからこそ、人格を想像して滑る、というアプローチが効いてくる。人格がなければ、間は生まれない。
SNSの感想でよく見かける「演技がうまいというより、感情が見える」という言葉、あれは偶然じゃないと思っています。専門的な知識がなくても、人は人の迷いに敏感なんですよね。
個人的な話をすると、僕はこの点で、原作を読んでからアニメを観返すのが本当におすすめだと思っています。キャラクターの内面を知った状態で、もう一度スケートシーンを見ると、「あ、この子、ここで無理してるな」とか、「今、ちょっと怖いんだな」とか、動きの意味が変わる。
振付担当がやっていたのは、技術指導でも、再現でもない。キャラクターの人生を、一瞬の滑りに圧縮する作業です。ここまで読んで「いや、さすがに考えすぎだろ」と思われるかもしれません。でも、その“考えすぎ”を許してしまうだけの情報が、公式情報の行間に、確かに詰まっているんです。
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第2期で明示された「モーションキャプチャー撮影協力」という肩書き
公式発表に見る第1期と第2期の違い
第2期の公式情報を見たとき、正直、僕は一度ページを閉じてから、もう一度開き直しました。そこに書かれていた「モーションキャプチャー撮影協力」という肩書きが、あまりにも示唆的だったからです。
第1期では、モーションキャプチャーに関わる情報は、制作記事やインタビューを丁寧に読んでいくと“浮かび上がってくる”タイプのものでした。あくまで裏方として、技術として、語られていた印象が強い。
ところが第2期では、その関わりが公式の場で、はっきりと「役割名」として言語化された。これ、めちゃくちゃ大きな変化だと思っています。
なぜなら、肩書きが明示されるということは、「その仕事が、作品の完成度に直接影響する重要な要素である」と制作側が認めた、ということだから。モーションキャプチャーが、もはや“補助技術”ではなく、“表現の核”に食い込んできた証でもあります。
ここで僕の頭に浮かんだのは、「第1期で得た確信」です。つまり、第1期の時点で、制作側はもう分かっていたんだと思うんですよ。この作品は、モーションキャプチャー抜きでは成立しない、と。
だから第2期では、あえて隠さない。むしろ、正面から示す。これは宣伝というより、姿勢表明に近い。『メダリスト』は、どこまでいっても“身体の物語”なんだ、と。
少し穿った見方をすれば、ここにはファンとの信頼関係も感じます。裏側を知りたい人が増えた。制作の本気度を理解し始めた視聴者が増えた。だからこそ、公式としても、きちんと名前と役割を出す段階に来た。
こういう変化を追いかけるの、僕は大好きなんです。作品が成長するって、ストーリーだけじゃない。クレジットの書き方ひとつにも、進化が表れる。それを見逃さないと、作品との距離がぐっと縮まる気がします。
キャラクターや演目ごとに変わる“演技の担い手”という考え方
「モーションキャプチャー撮影協力」という肩書きを見て、もうひとつ強く感じたことがあります。それは、『メダリスト』が演技の担い手を一人に固定していない、という事実です。
普通、こういう話題になると、「誰がやっているのか」を一本化したくなる。でも『メダリスト』は、あえてそうしない。キャラクターが違えば、演目が違えば、求められる身体も違う。その当たり前を、制作側が本気で受け止めている。
フィギュアスケートって、競技であると同時に、ものすごく個人的な表現なんですよね。ジャンプの高さや回転数よりも、「その人らしさ」が評価される瞬間が確実にある。
だから、もし仮に同じ人がすべての演技を担当していたら、どこかで均質化が起きる。上手いけれど、似てくる。『メダリスト』がそこを避けているのは、キャラクターごとに違う人生を、身体で語らせたいからだと思います。
公式情報として「撮影協力」という形で名前が出るということは、その人の滑りが、特定の演技やキャラクターに強く結びついている可能性が高い。つまり、「この滑りは、この人の感覚が必要だった」という判断が、制作現場で行われている。
これ、アニメ制作としては、かなり贅沢です。効率だけを考えれば、まとめた方が楽。でも『メダリスト』は、あえて非効率な道を選んでいる。非効率の中にしか、個性は宿らないから。
SNSの感想を眺めていると、「この演技、前と雰囲気が違う」「同じキャラなのに、成長して見える」という声をよく見かけます。あれ、演出や作画だけの話じゃない。身体の質感そのものが変わっているから、そう感じるんです。
個人的に、ここが『メダリスト』の一番“信用できる”ところだと思っています。キャラクターの成長を、セリフや展開だけで済ませない。身体の動きという、最も嘘のつけない部分で表現しにいく。
誰が滑ったのか。その問いは、もう「裏話」ではありません。キャラクターを理解するためのヒントであり、作品の構造を読み解く鍵です。第2期でその肩書きが明示されたことは、制作側からの「ここも観てほしい」という、静かなメッセージなんじゃないかと、僕は受け取っています。
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なぜ『メダリスト』の演技はここまでリアルに感じられるのか
ジャンプではなく「助走」に宿るリアリティ
『メダリスト』のスケートシーンを観ていて、僕がいちばん最初に違和感…いや、正確には“異変”を感じたのは、ジャンプの瞬間じゃありませんでした。踏み切る前、リンクを横切る助走の数秒。あそこ、異様に長く、異様に生々しい。
普通、アニメだと派手な技が主役になります。ジャンプ、回転、着氷。そこを気持ちよく見せるために、前後はテンポよく処理されがちです。でも『メダリスト』は違う。むしろ、ジャンプ前の「まだ何も起きていない時間」を、執拗なほど描く。
この選択が、どれだけ狂気じみているか。制作の基本情報を踏まえると、よく分かります。実在リンクで、広い距離を使ってモーションキャプチャーを行っている。つまり、助走を短縮できない環境で、あえて記録している。
助走って、誤魔化しが効かないんです。スピードの乗り方、腕の振り、視線の置き方。少しでも迷いがあれば、身体に出る。ジャンプの成否より前に、その人の状態が露呈してしまう。
だから『メダリスト』の助走は、怖い。上手いとか綺麗とか以前に、「この子、今ちょっと不安だな」とか、「ここ、覚悟決めてきてるな」とか、感情がダイレクトに伝わってくる。
僕はここで二つの可能性を考えました。一つは、「単純にモーションキャプチャーがリアルだから」。もう一つは、「制作側が、助走こそが演技だと理解しているから」。で、答えは明らかに後者です。
フィギュアスケートを少しでも近くで観たことがある人なら分かると思いますが、本番でいちばん心臓に悪いのは、ジャンプの瞬間じゃない。跳ぶと決めてから、跳ぶまでの時間なんですよね。
『メダリスト』は、その時間を削らない。削れないのではなく、削らない。ここに、リアルさの正体があります。リアルって、情報量の多さじゃない。削らなかった部分の選び方なんです。
カメラワークとスピード感が生む体感的な説得力
もうひとつ、演技がリアルに感じられる大きな理由が、カメラワークです。これ、意識して観ないと気づきにくいんですが、『メダリスト』のスケートシーンは、カメラがとにかく“追いついていない”。
正確に言うと、追いついていないように設計されている。モーションキャプチャーのデータをもとに、カメラを後付けで設計しているからこそできる芸当です。
カメラが少し遅れる。フレームアウトしかける。広角気味になって、背景が流れる。この一連の流れが、「速い」という情報を、頭ではなく身体に叩き込んでくる。
ここで思い出したのが、スケートリンクで観戦したときの感覚です。選手が全力で近づいてくると、視線が追いつかなくなる。焦点が合う前に、通り過ぎてしまう。『メダリスト』のカメラは、その感覚を再現している。
しかも厄介なのが、スピード感を出そうとすると、キャラクターの顔が歪みやすいという点。公式制作情報でも触れられていましたが、ここはアニメ的な嘘とリアルの綱引きが発生する場所です。
『メダリスト』は、その綱引きを雑に処理しない。顔はキャラクターとして保ちつつ、周囲の空間で速度を語らせる。言い換えるなら、速さを「顔」に背負わせない判断をしている。
これ、かなり高度です。普通は、表情を歪ませて迫力を出したくなる。でもそれをやると、「アニメの演技」になる。『メダリスト』は、あくまで「人が速く動いている」ように見せたい。
SNSで見かける「なんか怖い」「スピード感が異常」という感想、あれは正しい反応です。情報として速いのではなく、体感として速いから、言葉にしにくい違和感になる。
個人的には、ここが一番“信用できる”ポイントでした。派手に見せようとしていないのに、速い。盛っていないのに、圧がある。これは、モーションキャプチャーのデータと、カメラ設計の思想が、同じ方向を向いていないと絶対に出ない感覚です。
ジャンプが決まった瞬間より、その前後で息を詰めてしまう。『メダリスト』の演技がリアルに感じられる理由は、そういう観ている側の呼吸までコントロールしてくる設計にあります。気持ち悪いくらい、丁寧で、誠実で、だからこそ目が離せない。僕がこの作品を信頼している理由は、たぶんここに集約されているんです。
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ファンの感想・考察に見る「リアルだった」という共通認識
SNSで語られる違和感のなさと没入感
公式情報を軸にここまで語ってきましたが、ここで一度、視線を少しだけ“外”に向けてみます。SNS、特にXで流れてくる『メダリスト』の感想を眺めていると、ある共通点が浮かび上がってくるんです。
それは、「作画がすごい」「CGがきれい」といった技術評価よりも先に、「なんかリアルで怖い」「息するの忘れた」という、身体反応に近い言葉が多いこと。
この手の感想、実はめちゃくちゃ信用できます。なぜなら、人は理屈が追いついていないときほど、感覚的な言葉を使うから。分析できていない、でも何かを受け取っている。その状態で出てくる言葉には、嘘が混じりにくい。
「違和感がない」という表現も、頻繁に見かけます。でもこれ、よく考えると不思議なんですよね。アニメで、しかも3DCGを多用したスケートシーンなのに、違和感がない。普通なら、どこかで「アニメだな」と引っかかるはずなのに。
僕はこの「違和感がない」という言葉を、情報が多すぎて違和感を探す余裕がない状態だと解釈しています。動き、スピード、間、感情。そのすべてが一斉に流れ込んでくるから、脳が処理に追われる。
制作の基本情報を踏まえると、この反応は偶然じゃない。実在リンクでのモーションキャプチャー、助走を削らない演出、カメラが追いつかない設計。全部が「考えさせない」方向に向いている。
考えさせない、というのは雑に作っているという意味ではありません。むしろ逆。考える前に、感じさせるための徹底した設計です。
SNSで「気づいたら見終わってた」「一瞬だった」という感想を見るたびに、僕はニヤッとしてしまいます。それ、制作側が一番狙っているところだから。
少し気持ち悪い話をすると、僕は感想ツイートを読みながら、「あ、この人、助走のところで呼吸止めてるな」とか、「ここで肩に力入ってたな」とか、勝手に想像してしまう。そういう身体反応を引き起こしている時点で、この作品はもう“成功”なんです。
専門知識がなくても伝わる“本物っぽさ”の正体
もうひとつ、ファンの感想で特徴的なのが、「スケート詳しくないけど、すごかった」「ルール分からないのに引き込まれた」という声です。これ、実はものすごく重要なポイントです。
専門知識がない人にとって、フィギュアスケートは本来ハードルが高い競技です。ジャンプの種類、回転数、基礎点。分からない要素だらけ。でも『メダリスト』は、そこに正面から説明を入れない。
代わりにやっているのが、「分からなくても分かる」表現です。技術的な難易度ではなく、挑戦している人間の状態を伝える。
ファンの感想を見ていると、「成功したか失敗したかは分からないけど、怖そうだった」「めっちゃ緊張してるのは伝わった」という言葉が多い。これ、競技としての理解じゃなく、感情としての理解なんですよね。
ここで、モーションキャプチャーと振付の話が効いてきます。身体の動きに、実際の人間の重心移動や迷いが入っているから、知識がなくても「今、無理してる」「今、覚悟決めた」というのが伝わる。
僕はこの状態を、「本物っぽい」という言葉で済ませてしまうのは、少しもったいないと思っています。本物っぽいんじゃない。人間っぽいんです。
氷の上で滑っているのはキャラクターだけど、その動きには、現実の人間が積み重ねてきた時間と感覚が染み込んでいる。だから、競技を知らない人の身体にも、直接届く。
SNSで「アニメなのに、スポーツ観戦してる気分になった」という感想を見かけたとき、僕はちょっと感動しました。ああ、この人、ちゃんと“体験”してるな、と。
情報を理解する前に、体験してしまう。これって、実写でもなかなか難しいことです。それをアニメで、しかも3DCGを交えてやってのけている。
ファンの感想は、時に雑で、時に感情的で、論理的じゃない。でもだからこそ、そこに現れる共通認識は強い。「リアルだった」「怖かった」「目が離せなかった」。この声の重なり自体が、『メダリスト』という作品の“答え合わせ”になっていると、僕は思っています。
原作を知ると見え方が変わるモーションキャプチャーの意味
キャラクターの内面を知ったうえで観る演技の重み
ここまでアニメ『メダリスト』のモーションキャプチャーや演技のリアルさについて語ってきましたが、正直に言います。原作を知ってからアニメを観ると、体験の密度が一段階変わります。
これは「原作のほうが上」とか、そういう話ではありません。むしろ逆で、アニメのスケートシーンが、原作で描かれていた“言葉にならない感情”を、身体の動きとして回収してくる。その瞬間に、ゾワッとするんです。
原作では、キャラクターの内面が、モノローグや表情の描写で丁寧に積み重ねられています。自信のなさ、焦り、他人と比べてしまう癖。そうしたものが、ページの行間に溜まっていく。
その状態でアニメを観ると、モーションキャプチャーで再現された助走や踏み切りが、単なる「リアルな動き」ではなく、感情の結果としての動きに見えてくるんです。
たとえば、助走が少し長い。踏み切りが一瞬だけ遅れる。ジャンプ自体は成功しているのに、どこか危うい。原作を読んでいると、「あ、今この子、迷ってるな」とか、「ここ、背伸びしてるな」と、動きの意味が一気に立ち上がる。
これは、モーションキャプチャーが“正確”だから起きる現象ではありません。正確さだけなら、もっと無機質になる。そうじゃなくて、人間の癖や感情が混じった動きだから、内面と結びつく。
僕はこの瞬間を、「アニメが原作を追い越す」のではなく、「原作がアニメを深くする」と表現したい。どちらか一方では完成しない関係性です。
少し気持ち悪い話をすると、原作を読んだあとにアニメを観返すたび、「このカット、ここまで考えて作ってるのか…」と、一人でうなずいてしまう瞬間があります。制作側が、原作の感情をちゃんと信じているからこそ、ここまで身体表現に振り切れたんだろうな、と。
アニメと原作が補完し合う『メダリスト』という作品構造
『メダリスト』という作品の面白さは、アニメと原作が、同じ場所を説明しないところにあります。原作は、感情を言葉とコマで掘り下げる。アニメは、その感情が“出てしまった結果”を、動きで見せる。
この分業が、ものすごく綺麗なんです。アニメでスケートシーンを観て、「なんかこの動き、切ないな」と感じたあと、原作を読むと、「ああ、だからか」と腑に落ちる。逆に、原作で心情を理解してからアニメを観ると、動きの一つひとつが意味を持ち始める。
モーションキャプチャーという技術は、この構造の中で、単なる再現装置ではありません。原作で描かれた感情を、物理現象として表に出すための装置として機能している。
だからこそ、『メダリスト』のスケートシーンは、説明的にならない。技の名前を連呼しないし、難易度を数字で押し付けない。その代わり、身体が語る。
原作にしかない細かい心理描写や、セリフの行間を知っていると、「あ、このターン、感情の逃げ場がないやつだ」とか、「ここ、気持ちを前に出しすぎてるな」とか、完全にオタク目線の読み方ができるようになる。これ、めちゃくちゃ楽しい。
そして同時に、少し怖くもなる。ここまで考えて作られているなら、もう一度観返さないわけにはいかない。原作を読んだあと、アニメを観返し、また原作に戻る。このループが自然に発生する。
ネットの感想でも、「原作読んでから観たら、全然違った」「2周目が本番」という声をよく見かけます。あれ、決して誇張じゃない。作品の構造そのものが、往復視聴・往復読書を前提に組まれているように感じるからです。
モーションキャプチャーの意味は、リアルな動きを作ることでは終わりません。それは、原作で積み重ねられた感情を、別の次元で“回収する”ための仕組みだった。そう考えると、『メダリスト』という作品が、なぜここまで人の心を掴んで離さないのか、その理由が、少しだけ見えてくる気がするんです。
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「この先どうなるかは分かっているつもりだけど、
細かいところまでは知らないまま」そう感じた作品ほど、原作を読むと印象が変わることがあります。
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「原作は高いから後回し」という理由は、少なくとも初回では成立しにくい条件です。
💡 原作を読むと、アニメで分からなかった理由が見えてくる
アニメは分かりやすさとテンポを優先します。
その結果、次の要素は削られがちです。
- ・キャラクターの判断に至るまでの思考過程
- ・後半展開につながる伏線や説明
- ・感情表現の行間や余白
「あの行動、そういう意味だったのか」と後から腑に落ちる体験は、
原作を読んで初めて得られることが多いです。とくに完結済み、もしくは終盤に入っている作品ほど、
先に原作で全体像を把握したほうが満足度が高くなる傾向があります。
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『メダリスト』のモーションキャプチャーが示したアニメ表現の可能性
3DCGとセルルックの狭間で選ばれた答え
ここまで読み進めてくださった方なら、もうお気づきかもしれません。『メダリスト』がやっているのは、3DCGかセルアニメか、という二択の話じゃない。もっと厄介で、もっと面白い場所に踏み込んでいる。
制作の基本情報を追うと、モーションキャプチャーという技術を、「写実に近づくための手段」ではなく「嘘をつく場所を選ぶための道具」として使っていることが見えてきます。
3DCGは正確です。正確すぎる。だから、そのまま使うと、人間味が消える。一方で、セルルックは感情表現に強いけれど、速度や空間の説得力で嘘が出やすい。普通なら、どちらかに寄せて妥協する。
でも『メダリスト』は、その妥協を拒否した。実在リンクで収録したモーションキャプチャーを使いながら、カメラやレイアウト、キャラクターデザインで、アニメとしての嘘を丁寧に上書きしていく。
ここで僕の中に浮かんだ比喩は、「リアルな骨格に、アニメの皮膚を張る」というものです。骨は現実の身体。でも、表に見せるのはキャラクター。どちらかが主張しすぎると、バランスが崩れる。
公式制作情報で語られていた、広角レンズによる歪みをどう抑えるか、という話。あれ、単なる技術的工夫じゃない。「どこまでリアルにして、どこから嘘をつくか」という美学の話です。
顔は歪ませない。でも、背景は流す。スピードは感じさせる。でも、キャラは崩さない。この取捨選択があるからこそ、『メダリスト』のスケートは「アニメなのに、本物っぽい」という、矛盾した感想を引き出す。
正直に言うと、ここまで細かく設計している作品は、観ている側も試されます。ぼーっと観ると流れてしまう。でも、少し意識を向けると、「あ、ここ嘘ついてないな」「ここ、あえて嘘ついてるな」と、作り手の思考が見えてくる。
それが楽しくて、ちょっと気持ち悪くて、でもやめられない。『メダリスト』は、3DCGとセルルックの間に、第三の居場所を作ろうとしている。その挑戦が、ここまで真剣に行われているのが、たまらなく嬉しいんです。
「技術」ではなく「感情」を残すためのモーションキャプチャー
最後に、いちばん伝えたい話をします。『メダリスト』におけるモーションキャプチャーは、技術の自慢話ではありません。むしろ逆で、技術の存在感を消すために、徹底的に使われている。
モーションキャプチャーという言葉を聞くと、「すごい技術」「最新の表現」というイメージが先に立ちます。でも『メダリスト』のスケートシーンを思い返してみてください。観終わったあと、技術の名前を思い出しますか?
たぶん、多くの人が思い出すのは、「怖かった」「息が詰まった」「なんか泣きそうになった」という感覚のほうです。これって、制作側からすると最高の結果だと思うんですよ。
モーションキャプチャーで残したかったのは、ジャンプの高さでも、回転数でもない。跳ぶ前の迷い、踏み切ったあとの覚悟、失敗したかもしれないという一瞬の空白。そういう、数字にならない部分です。
公式情報を読むと、実在リンクでの収録や、振付担当が人格を想像して滑るというアプローチが、すべてこの一点に収束しているのが分かります。感情が先にあり、技術は後からついてくる。
僕はここに、アニメ表現の未来を感じています。派手なエフェクトや、説明的な演出で感動させるのではなく、人間の弱さや揺らぎを、身体の動きとして残す方向性。
少し大げさに言えば、『メダリスト』は「上手く見せるアニメ」から、「正直に見せるアニメ」への橋をかけている。その橋の上に、モーションキャプチャーという技術が置かれている。
ここまで来ると、もはや「モーションキャプチャー担当は誰か」という問いは、入口でしかありません。本当に面白いのは、その技術を使って、何を残そうとしたのかという部分です。
氷の上で滑るキャラクターの背中を見て、なぜか胸が苦しくなる。その理由を、ここまで分解しても、まだ完全には言い切れない。でも、それでいいんだと思います。感情は、言葉にしきれないからこそ、身体で語られる。『メダリスト』は、その当たり前を、アニメという表現で真正面からやってのけた作品なんです。
本記事の執筆にあたっては、アニメ『メダリスト』に関する公式発表および、制作背景・モーションキャプチャー技術・振付担当者への取材記事など、信頼性の高い一次情報・準一次情報を参照しています。特に、モーションキャプチャー制作を担当したスタジオや収録環境、演出意図については、制作現場への直接取材を行っている専門メディアの記事を重視しました。また、振付担当者やスケート演技に関するコメントについては、公式インタビューを掲載している大手エンタメメディアの情報をもとに整理しています。SNS等で見られる感想や考察については、事実情報とは切り分けたうえで、世間の受け止め方・ファン心理の一例としてのみ参照しています。
CGWORLD(制作技術・モーションキャプチャー解説)
CGWORLD(アニメーション・カメラワーク解説)
アニメ『メダリスト』公式サイト NEWS
ORICON NEWS(振付担当・制作背景インタビュー)
コミックナタリー(制作体制・コメント紹介)
電撃オンライン(振付・モーションキャプチャー言及記事)
Real Sound(映像表現・CG評価記事)
- 『メダリスト』のモーションキャプチャーは「誰が担当したか」だけで語れるものではなく、制作体制そのものがリアルさを支えていると見えてくる
- 実在リンクでの収録やCGCGスタジオの判断から、スケートの“助走”や“間”を嘘にしない覚悟が伝わってくる
- 振付担当・撮影協力という立場のスケーターたちは、技ではなくキャラクターの感情を身体に落とし込んでいる
- SNSで語られる「怖い」「息が止まった」という感想は、技術ではなく体感としてのリアルさが届いている証拠
- 原作とアニメを往復することで、モーションキャプチャーの動きが“感情の結果”として立ち上がり、作品の奥行きが何倍にも広がる



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